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1967年3月20日、金栗四三はスウェーデンのストックホルムで、1912年に始めたマラソンを完走させた。タイムは54年246日32分20.3秒。これは「マラソン完走最長タイム| longest time to complete a marathon」としてギネス世界記録に登録されている。

75歳の金栗四三がストックホルムに戻り、20年前に始めたマラソンを完走する 

運命的ともいえる1912年ストックホルム・オリンピックでのレースに先立ち、金栗は国内での予選で人々の予想を覆した。発汗によってアスリートを疲れさせると考え水分補給を拒み、結果予選前は体調不良になっていたという。しかし直前に体調が回復し、2時間32分45秒で首位でゴールした。

オリンピック出場が決定し、日本も世界最高峰のスポーツ大会のデビューを飾る事が決まった。1912年のオリンピックでは初めて、南極を除くすべての大陸から選手が参加した。

金栗の戦いは大会前から始まっていた。日本からスウェーデンまでの移動は電車で10日間。少しでも体を動かすために、各停車駅で走り込みをしていたそうだ。

旅の途中、短距離走でオリンピックに出場する三島弥彦が病に陥る。金栗は未だに発汗予防で飲み物を口にしない状態のまま、三島の看病をした。このいった状況が、のちのマラソンにおける事件に繋げたのかもしれない。

The 1912 Summer Olympics were the first Games to host athletes from all six populated continents 

1912年7月14日、マラソン当日。気温は32度まで上昇した暑い日だった。旅の疲れ、三島の看病、準備期間のなさ……金栗は疲弊した状況のなか、灼熱のスタートラインに立った。日本の選手が初めてオリンピックのステージに立った瞬間だ。金栗には重圧がのしかかっていた。レースの途中、金栗は転倒した。

コース付近に住む家族に助けられた金栗。回復すると彼はある決断を迫られる。大会にリタイアを告げるか、誰にも告げず国に戻るかーー。日本初のオリンピック出場で、リタイアは望ましくないと考えた金栗は後者を選んだ。(しかし暑さが原因で出場選手の半数は棄権していた。)

居場所が突き止められなくなると、金栗はスウェーデンで失踪者となった。その状態はそこから50年続いたのだ。

帰国した金栗は、オリンピックでの経験を活かして国内においてのスポーツに専念した。日本が他の国と比べてオリンピックへの準備が足りないと身を持って感じ、次のオリンピックに向けて箱根駅伝の設立に大きく貢献し、国内の長距離走の普及を図った。

国内での知名度もあり、1920年、1924年のオリンピックにも出場したにも関わらず、スウェーデンにおいて金栗は失踪者のままだった。

1920年のアントウェルペン・オリンピックで、金栗は2時間48分45.4秒で16位入賞を果たす 

1967年、スウェーデン・テレビは熊本の玉名で引退生活を送る金栗を見つけた。"50年以上の失踪"の幕が閉じた瞬間だった。テレビ局はそこである提案をする。「半世紀前に始めたマラソンを完走しないか?」

金栗はそれを引き受け、1967年3月にゴールをまたいだ。史上最も長いマラソンが樹立された。

完走後、金栗は「長い道のりでした」と振り返った。「(レースの途中)その間に嫁をめとり、子ども6人と孫10人ができました。」

現在、ほとんどのマラソンはカットオフタイムがあり、一定時間でそのポイントを通過しなかった場合はタイムとして記録されない。金栗による半世紀以上にも及んだマラソンは逸話として受け継がれていくだろう。

金栗は1983年、92歳で息を引き取った。日本のスポーツ界に大きな貢献をした人物として歴史に名を遺した。夏季オリンピックにおいて日本は累計439のメダルを獲得しており、世界ランク11位。この功績の土台を作ったのは金栗四三だと語る人も少なくはない。

そして金栗が残した記録で注目すべきは、そのとてつもなく長い完走タイムではない。本当に注目すべきは、自身の経験を活かして、同じ経験をする選手が出ないように力を注いだ所ではないだろうか。

Thumbnail/header image credits: Getty / Wikipedia