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階段――。それは家、駅、オフィスなど、あらゆる場所で私たちを待ち構えている。それを登ることに億劫さを感じている人も少なくないはずだ。

しかしその階段に自ら進んで駆け登るアスリートたちがいるのはご存じだろうか。

そのひとりが渡辺良治選手だ。スカイランニングのバーティカルキロメーターで日本代表に選ばれている。スカイランニングとは、山岳や超高層ビルを駆け登る競技の総称で、バーティカルキロメーターは高層ビル・階段に特化したものだ。渡辺選手は2017年、バーティカル・ワールド・サーキットで年間ランキング3位を獲得するなど、国内外の階段を制覇し続けている。

ギネス世界記録公式認定証を持つ渡辺選手

そして2020年には東京スカイツリーでギネス世界記録「最も速い1マイル階段垂直登り(男性)|Fastest vertical mile (male)」を1時間06分58秒で達成した。しかし彼はどうして”階段登り”を極めるに至ったのか……。その答えを探るべく、直接話を聞くことにした。

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舞台は東京都多摩地区。取材時期は夏真っ只中だったが、渡辺選手と待ち合わせた場所は、少し深めの森に包まれていた。刺激の強い日光は当たらないものの、2,3歩歩けばすぐに汗がにじむほどの湿気がある。

渡辺選手がトレーニングにも使用する階段

森の奥に進むと渡辺選手が待っていた。そして彼の後ろにたたずんでいるのは、長い階段。その傾斜はまるで垂直に積みあがっているかのような錯覚に陥ってしまうほどだ。

「まずは登ってみますか」

挨拶をして間もなく、渡辺選手はそう口にした。確かに取材前から階段を一緒に駆け登ってみたいと依頼していたが、そびえたつ階段を前にするとうろたえる。

気を取り直して1段ずつ登ってみる。段差は低いので先まで続く階段を見さえしなければ気負わずいける。ただ石段がでこぼこしているのでバランスを崩さないように気を付ける必要があった。しかし1段飛ばしにして中間地点に来た頃、息が少し荒くなっていた。

中間地点から頂上までは走ってみることにした。段飛ばしはもちろんのこと、手すりを使って腕で体を引っ張りあげるというコツも教わり、渡辺選手の後をついていった。ついていくのは大変だったが、頂上に着いた瞬間の感想は「案外いけるかも」だった。

階段の上から見下ろした時の様子。手すりが下に続いているのが分かるが、傾斜が急で階段は見えない

しかし、だ。撮影のために階段を降りようとした瞬間、脚が小刻みに震え、うまく力をいれるのが難しくなっていた。時間差で筋肉が悲鳴を上げ始めたのだ。特にふくらはぎの張りを感じると渡辺選手に伝えると「普段走っているとき、路面を蹴るために小さい筋肉を使いすぎているんだと思います。普通のランニングでもそうですが、階段ではさらに大きな筋肉を使うことを意識しなければならないんですよ」と分析した。

「これが大会だとこれが1,000段、2,000段あるんですよ」つぶやくように発されたその一言で、階段を登る競技の過酷さが身に染みた。

夢なき幼少期

渡辺選手は1984年2月生まれ。今ではアスリートだが、小学生の頃はスポーツが苦手だった。それどころか、暇さえあれば親の目を盗んでテレビゲームをしていたという。特段長けた所もなく、大きな夢や目標も持っていなかったと、本人は回想する。

「小学校卒業のときに習字で好きな字を書くことがあったのですが、私は半紙に「夢」と書きました。それは夢がなかったから。夢が欲しいなと思って書いたんです。」

小学校中学に入るまで小太りだった渡辺少年は当時、体型にコンプレックスを持っていた。だから中学生になると卓球を始めた。

小学生時代の渡辺少年

「なぜ卓球にしたかというと、父は高校時代、インターハイに出ていて、社会人になっても都大会で活躍したりするほどの強い選手でした。かっこいいと思っていたんです」

しかし卓球を選んだのにはもう1つ理由があった。それは”恐怖”だ。

「例えば野球はボールが当たると痛いじゃないですか。卓球は球が当たっても痛くはないだろうというのもありました」

卓球に面白さを感じ、自ら進んで練習を重ねるようになった。しかし中学・高校と鍛錬を積んでも芽は出なかった。「当時も競技人口は多く、インターハイに出られる選手もほんの一握り。それに加えて戦略を考えたり頭を使ったりするのはどうも苦手だった。当然無理といった結果だと思います。まあ、こういうのはどこにでもあるような話かも知れません」

夢またつぶれ

大学生に進学すると、スポーツから少し遠ざかる。その一方で、大学生活を通じて、自分の一番やりたいことをやりたいと思うようになったという。

「やり残したことや、今のうちにやっておきたいことは何だろうと考えるようになりました。大学4年、就職活動そっちのけで考え続けました」

若いときにこそできることは体を動かすことと考えた彼は、スポーツに再び目を向けた。大学時代にスポーツをしてこなかったことは百も承知だ。プロボクサーになりたいという思いを抱いて、世田谷にあるジムの扉をたたいた。

ボクシングのプロテスト当日をむかえた渡辺選手(左)

4年間、地道にトレーニングを続けた。しかし少年時代の渡辺氏を襲った”恐怖”が再来した。相手のパンチをあまりにも恐れると、いい動きはできない。プロテストの結果は失格に終わった。

夢を見つけた30代

ボクシングをやめたとたん、渡辺氏の体は太る。そこで2010年4月頃、ランニングを趣味程度で始めた。さらに山を走るトレイルランの存在を知り、大会にも出るようになると、たまに入賞することもできた。(実はボクシング時代で培った体幹の強さや体の鍛え方、練習に耐える力が、ランニングでも活かされていた。)

トレイルランニング大会に参加する渡辺選手

そして登りに強いことを知った渡辺選手は、試しに富士登山競争に出場した。するといきなり入賞することができたのだ 。

さらに登りに特化した競技を探すと、国際スカイランニング協会が行っている選手権シリーズの中に「バーティカルキロメーター」という部門があることを知る。山道の中、水平距離5キロ未満で垂直1キロを登る競技だ。さらに2015年には日本シリーズ戦が正式開催。上位入賞者は日本代表に選出される仕組みとなっていた。そこで渡辺選手は日本シリーズに参戦。好結果で見事代表選出を果たすのだった。

しかし翌年、日本代表として世界選手権に参戦するものの、スペインでは14位という結果に。「世界は甘くなかった」と振り返る渡辺選手。練習をしても満足できない状況に陥る中、ついに「階段を登る競技」の存在を知る。

「スカイランニングの関係者から、登り得意なんだから(階段の競技に)参加してみないかと誘われました。2か月くらいの準備期間で参戦して3位に入賞しました。そのとき4位にいたのは、スカイランニング界では皇帝とも呼ばれている宮原徹さんでした。山ではレベルがあまりにも違う圧倒的な存在でしたが、そんな相手に階段で勝ってしまったんです」

夢を持つことにあこがれて20数年、ついにそれを見つけた瞬間だった。

年間ランキング3位を獲得した時のトップ3選手(左に渡辺選手)

2017年にVWC(バーティカル・ワールド・サーキット)に参戦し、序盤は持久力足らずで苦戦するものの、最終的には年間ランキング3位を獲得。翌年にはクラウドファンディングで遠征費用を募り、より多く海外遠征を行った。

さらに2019年には、国内最大の鉄骨階段専門メーカーである横森製作所とスポンサー契約を結ぶ。これによって欧米の大会も参加できるようになり、ニューヨークの大会で初優勝を果たした。選手人生がようやく波にのってきたように思われた。

途絶える大会と世界記録挑戦

2020年、新型コロナウイルスは世界中で猛威をふるった。多くのスポーツ大会は中止を余儀なくされ、バーティカルキロメーターも例外ではなかった。バーティカル・ワールド・サーキットはそれから3年間開催されなかった。それには大きな理由があったと渡辺選手はいう。

「屋内で密になってしまうことがネックになっています。本来は都会でコンパクトに開催しやすいというのがメリットだったんですけどね」

スケジュールがぽっかりあいてしまい、どうしようかと頭を抱えていたとき、渡辺選手はギネス世界記録に注目します。

「マレーシアのソウ・ワイチン選手がギネス世界記録に挑戦するという投稿をSNSで見かけたんです。自分も似たような記録に挑戦しようと急遽準備を始めました」

ギネス世界記録挑戦を開始する渡辺選手

選んだギネス世界記録タイトルは「最も速い1マイル階段垂直登り(男性)|Fastest vertical mile stair climbing (male)」だ。会場は東京スカイツリー。何と横森製作所、株式会社Meetingの奥野晋一郎氏、光誠社の中村俊一氏が東京スカイツリーに交渉をし、渡辺選手の挑戦のための舞台を用意してくれたのだ。

「横森製作所が東京スカイツリーの階段を作っていたから、交渉ができたんだと思います。私はただやりたいといっただけなので、感謝しかないです。気持ちを口に出してよかったなと思いました」

渡辺選手の挑戦に協力した人物は他にもいる。スポーツエンターテイメントラボラトリーの井上雅胤氏は、奥野氏と協力し、挑戦に向けた準備をした。さらに挑戦当日はアナウンサーとしてマイクを握り、渡辺選手を奮い立たせた。また、榎原克治氏は、挑戦時のタイム計測を正確に行うため、大阪から自費で東京へ出向いたという。

「スカイツリーを貸し切ってこのような挑戦をするのは不可能に近いといえるほど、非常に大変なことです。総勢で50名近いスタッフが集まってくださり、その中にはほぼボランティアで夜遅くまで自分の挑戦の為に尽力して頂いた方もいました。協力していただいた皆さんひとりひとりのご厚意がなければ、絶対になし得ることはできませんでした。今でも感謝しきれない気持ちでいっぱいです」

ゴールテープを切る渡辺選手

渡辺選手が今までに参戦した階段レースでも、最長は550 m。ギネス世界記録挑戦はその3倍以上だ。挑戦中に味わった疲労のレベルは過去のレースとは比べものにならなかったという。

「まだ半分しかいっていないのに、脚がプルプルして、経験したことのない疲労が出ました。後半では脚がつってしまったんですが、応急処置をして何とか立て直して、またつらないようにごまかしながらゴールにたどりつきました。長かったですね。1時間以上階段の中にいると、何をやっているのか分からなくなってきました。景色が変わらない中ずっと同じことをやり続けるわけですから」

渡辺選手は2020年11月18日、総階段数9,097段を1時間06分58秒で登りきり、ギネス世界記録を達成した。この記録は、達成からおよそ2年たった現在でも塗り替えられていない。

認められなくてもいい。夢中になれ

2022年。国内外の大会も復活し始め、渡辺選手の活動もまた活発化しそうだ。

「十分休養をとったので。早くワールドシリーズに出たいです」

紆余曲折を経て選手になり、世界記録保持者になった渡辺選手。人生において何かに夢中になって取り組むことは、たとえ意味や成果がなかったとしても、幸せな時間だといいます。

「生きていて幸せだと思う時間をなるべく多く過ごして生きていきたい。夢とか目標があるのが当たり前じゃなくて、それを見つけるまでの試行錯誤は重要だと思います。その過程で失敗したり回り道をしたりするかも知れませんが、それがきっと大事なんです。”誰かに認められるため”というのは一旦置いておいて、自分が楽しめて満足できるものを探してほしいです」

階段王を目指す渡辺選手