「人類は座っているわけにはいかない」 ~ラリー・ウォルターズさん、42個の気球と空への挑戦

By Katherine Gross
掲載日 令和07年5月22日
Split image of Larry Walters flying in his balloon chair

1982年7月12日、ラリー・ウォルターズさんは42個のヘリウム気球を自分の芝生用椅子に結び付け、離陸の準備を整えました。ガールフレンドと友人たちからなる「地上クルー」の手を借りて、サンドイッチと冷たいビール、そしてBB銃を携えたラリーさんは、ロサンゼルス上空をゆっくりと上昇し、モハーベ砂漠の上を漂った後、自宅に戻ってくるという優雅な飛行を計画していました。

しかし、手作りの飛行装置を支えていたロープが切れ、ラリーさんは「チェア・フォース・ワン」と名付けた椅子で高度16,000フィート(4,876メートル)まで急上昇してしまいました。地上に戻る方法を見つけた時には、彼は「気球に取り付けられた椅子で到達した最高高度|highest altitude reached by a chair attached to balloons」という、アメリカ航空史上独特な地位を獲得していました。

カリフォルニア州ロサンゼルス生まれのローレンス・リチャード「ラリー」ウォルターズさんは、宇宙飛行への夢を抱いて育ちました。

「私はいつも気球に魅了されていました」と、ラリーさんはニューヨーカー誌の記事で語っています。「8歳か9歳の頃、ディズニーランドに連れて行ってもらいました。入り口で最初に目に入ったのは、何百万個ものミッキーマウスの気球を持った女性で、私は『ワオ!』と声を上げました。その時にアイデアが生まれたんだと思います。つまり、あれをたくさん集めれば自分を持ち上げてくれるだろう!ということです。

13歳頃、陸軍海軍の払い下げ品店で気象観測用気球を見て、これこそが進むべき道だと気づきました。あの大きなやつを手に入れなければならないと。その間ずっと、水素ガスの実験をして、自分で水素発生装置を作り、小さな気球を膨らませていました」

残念ながら、ラリーさんのパイロットになる夢は実現しませんでした。視力が悪すぎたのです。ベトナムで陸軍の料理兵として従軍した後、代わりにトラック運転手になりました。それでも飛行への憧れは失わず、1972年には「今やるしかない、やらなければ」と思い立ったそう。

ラリーさんの挑戦は、単なる無謀さの表れではありませんでした。試みに向けて十分な準備をしていました。購入したものには「とても頑丈な小さな椅子」、双方向無線機、高度計、手持ちコンパス、懐中電灯、予備電池、医療キット、ポケットナイフ、バランス用として椅子の側面に配置する8本のペットボトル入り水、ビーフジャーキー一袋、カリフォルニア州の道路地図、カメラ、コカコーラ2リットル、そして気球を割るためのBB銃が含まれていました。

彼は普通の芝生用椅子に支持用として両側に水を満たしたミルクジャグを取り付け、42個のヘリウム気球を4つのグループに分けて接続することで航空機を組み立てました。理論的には、地面に固定しているロープを放すことで穏やかに上昇し、気球を撃って、ミルクジャグの水を排出することで下降する計画でした。

試みの前夜にラリーさんと「地上クルー」が怪しいほど大量の巨大ヘリウム気球を膨らませている"不審な行為"を気にした警察官たちが何をしているかを聞くと、ラリーさんは単にコマーシャルの撮影だと言って追い払いました。

しかし、高い気球タワーは見過ごすことができず、やがて近所の人々が外に出て、ラリーさんが「インスピレーション1号」と名付けた装置に乗り込むのを見守っていました。パラシュートと救命胴衣を着用(ただしシートベルトはなし!)した彼は、ロープに繋がれたまま約300フィート上昇して辺りを偵察する予定でしたが、インスピレーション号は毎分約800フィートの速度で上昇し、地上への繋留索は切れてしまいました。

双方向無線を通じて、ラリーさんは「気球を割って降りてくるように」懇願する、ガールフレンドの声を聞くことができました。それでもラリーさんは、不安を感じながらも、空中での自由を感じていました。

「彼女の話を飲む気はそうそうありませんでした」と彼は語りました。「なぜなら、これまでのすべて、私の人生、この計画に注ぎ込んだお金の後で、ただ降りてくるなんて絶対にありえないからです。絶対にです。私はただ上空で良い時間を過ごすつもりでした」

「高く上がれば上がるほど、より多くのものが見え、それは素晴らしいものでした。クイーンメリー号のオレンジ色の煙突が見えました。ハワード・ヒューズさんの大型水上機、スプルースグースが2隻の商用タグボートと並んでいるのも見えました。さらに高く上がると、海軍基地の石油タンクが小さな点のように見えました。そして遠くにはカタリナ島も見えるではないですか」

「海は青く不透明でした。海岸線を永遠に見渡すことができました。ある時点で、下を飛ぶ小さなプライベート機を目にしました。プロペラの『ブーン』という音が聞こえました。それが唯一の音でした。カメラを持っていましたが、写真は撮りませんでした。だって、あの体験は私だけのものだから。その記憶だけを持って帰りたかった。それが一番鮮明に残るものなのだから」

ついに15,000フィートに到達した時、空気が薄くなり、気温が下がりました。そろそろ時間だと判断して、7個の気球を撃ち落とし、高度計を確認するために銃を膝に置いたちょうどその時、強い突風が気球を捕らえ、彼は前に傾きました。銃は膝から転がり落ち、地面に向けて落下していきました」

「今日でも、BB銃が落ちていくのが見えます。どんどん小さくなって、3マイル下の家の方へ落ちていき、『下に誰も立っていないといいが』と思いました」と彼は語りました。「恐ろしい光景でした。『ああ、やってしまった。なぜ紐で結んでおかなかったんだ?』と思いました。ほとんどのものには予備を用意していましたが、銃そのものを失うなんて思いもしませんでした」

降下をコントロールする手段を失ったラリーさんは、16,000フィートまで上昇しました。後に連邦航空局は、ラリーさんが銃を失う前にあの7個の気球を割っていなかったら、50,000フィートまで上昇していたと推定します。ラリーさんの言う通り「アイスキャンディーになっていた」でしょう。

幸運にも、気球のヘリウムが漏れ始め、彼は徐々に降下し始めました。パラシュートで飛び降りる必要がなくてホッとしましたが、高度を調整する銃なしで着陸しなければならないことを恐れていました。

約13,000フィートで、彼は混乱した航空交通管制の緊急対応者と無線で連絡を取ることができました。相手は繰り返し「どの空港から離陸したのですか?」「35個の気球の塊があるとおっしゃいましたか?!」と尋ねました。同時に、周辺を飛ぶパイロットたちが、自分たちの空域に気球に取り付けられた椅子が浮かんでいるという報告をしていました。

地球との連絡を取り、自分が無事で降下中であることを伝えたラリーさんは、降下に集中し、ペンナイフで水差しを切り開いて速度をコントロールしようとしました。

「地面がどんどん近づいてくるのを見下ろしていました。約300フィートで、水は全部なくなっていました。次第に屋根が迫ってくるのが見え、それから電線が見えました」と彼は説明しました。

「椅子はその人の家の上を通り過ぎ、私は電線に引っかかり、一番下の線から約8フィート下にぶら下がりました!もう少し高く入っていたら、椅子が電線に当たって感電死していたかもしれません。死んでいたかもしれないし、どうなっていたかは神のみぞ知るところですね」

「皮肉なことに」ラリーさんは続けました。「その家の持ち主は、プールサイドのデッキチェアで朝刊を読んでいたんです。そして、この男性の顔つきといったら!それはそのはず。顔を上げると、電線の下で自分の真上に浮かんでいるブーツと椅子が見えたんですから」

「初めは思考停止したのか、私をじっと見ていました。15秒くらいたってようやく、彼は椅子から立ち上がりました。『おい、何か手伝いが必要かい?』と言いました。そしてびっくりすることに、彼はパイロットだったんです。」

市は、ラリーさんを降ろすためにその地区の電力を止めなければならず、90分間のフライトの後、彼が脚立で降りてきてすぐさま、警察に逮捕されました。しかし警察は、ラリーさんが破った法律を見つけることができず、彼を釈放。警察署を後にする際、彼はレポーターに飛行した理由を「人類はただ座っているわけにはいかない」と語りました。

後にFAA安全検査官のニール・サヴォイさんは語りました。「彼が連邦航空法のどこかの部分を破ったことは分かっています。どの部分かを把握でき次第、告発されるでしょう。もし彼がパイロット免許を持っていれば、それを停止するのですが、持っていません」ラリーさんは最終的に1,500ドルの罰金を科されました。罪状には空港交通区域内での飛行機操縦において「管制塔との双方向通信の確立と維持を怠った」ことなどが含まれていました。

ラリーさんは新しく得た名声を活用して当時アメリカで人気の深夜番組「デビッド・レターマン・ショー」に出演し、さまざまなインタビューを受けました。しかしラリーさんは1993年10月6日、44歳という若さで亡くなりました。死去前に、彼は自分の珍しい航空機をスミソニアン博物館に寄贈することができました。そして現在、インスピレーション1号はワシントンD.C.の国立航空宇宙博物館に展示されています。

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