
ヴィクター・ヴェスコヴォ: 有人潜水艇による最深潜水記録
人類は1953年に世界最高峰エベレスト初登頂、その7年後にチャレンジャー海淵に到達した。しかしその後、人類がこれより深く潜水することはなかった。ヴィクター・ヴェスコヴォが現れるまでは……。
一覧に戻る「冒険家」と聞いて、高い山々を制覇するのをイメージする人も少なくないだろう。しかし、元アメリカ海軍のプライベート・エクイティ投資家、ヴィクター・ヴェスコヴォは、登山だけで冒険を済ませようとはしなかった。

(グランド)スラム・ダンク
2017年、ヴェスコヴォは探検家グランドスラムを達成した。北極点・南極点と七大陸最高峰山頂の全てに到達するというこの偉業は、70人しか達成していない。
そのうち49人は、北極点および南極点までの道のり最低100 kmをスキーで移動した(他の21人は、沿岸からそりで移動した)が、ヴェスコヴォもその1人だ。


標高8,848 mのエベレスト(チベット語でチョモランマ、ネパール語でサガルマータ)は世界最高峰の山だ。初登頂はニュージーランドのエドモンド・ヒラリーとネパールのテンジン・ノルゲイが1953年5月29日に達成した。それからおよそ57年後、ヴェスコヴォはヒラリーの功績を追うかのようにエベレストに登頂した。ちなみに彼をガイドしたのは、「エベレスト最多登頂数|most ascents of Everest」(2019年時点で24回)でギネス世界記録に認定されているカミ・リタ・シェルパだ。
ヴェスコヴォは、エベレストの過酷さをありのままに語った「気温は低く、呼吸が難しくなります。生々しく衝撃的な体験をするけれど、景色は圧巻でした。ああいった山を登るのは人生のアレゴリーのようです。初めは前向きで期待に満ち溢れているけれども、その後容赦なく打ちのめされる。それになんとか耐えて、前に進まなければならない。そして目的を達成できないかもしれない。でも戻ってくることもできる。あなたの打たれ強さが試されているのです。」
ヴェスコヴォは、地球の七大最高峰を制覇すると、今度は海底を制覇しようと考え、五大洋それぞれの最深部に挑むファイブ・ディープス・探査の構想がうまれた。
より深い場所へ
「ファイブ・ディープス・探査」は、ジュール・ヴェルヌの大作のごとく、けた違いの構想だった。ただ海に潜ればいいというわけではなく、綿密な計画や資金、革新的な技術の採用が必要だったのだ。ヴェスコヴォはTriton Submarines社と協力し、新たな潜水艇を開発に取り組んだ。壮大なミッションをクリアするには、潜水艇は地上の1,000倍以上の水圧に耐えなければならない。4年以上の開発の末にうまれたのが「Limiting Factor」。世界で最も先進的な潜水艇の1つだ。

ヴェスコヴォはさらに、過去にアメリカ海軍を追撃するために利用された船を改造し、最新式の調査船「Pressure Drop」にした。そして技術のみならず、地理や海洋生物の専門家など、世界中からの英知を集めた。特にソナーマッピングのスペシャリストには、海の最も深い場所をピンポイントで特定する重要な任務を与えた。さらに、海洋における豊富な経験を持つクルーを集め、どのような状況にも対応できる体制を整えた。


初めのダイブは2018年12月19日、プエルトリコ海溝で行われた。そして10か月後の2019年8月24日、北極海のモロイディープにダイブし、プロジェクトは完結。いずれのダイブも史上初の試みだった。2020年、ヴェスコヴォは、地球の最も過酷な場所を訪れたことが認められ「Explorers Club Medal」を受賞した。

ファイブ・ディープス・探査:五大洋の最深部
海洋 | 最深部 | ダイブ日 | 深さ |
大西洋 | プエルトリコ海溝 | 2018年12月19日 | 8,376 m (27,480 ft) |
南極海 | サウスサンドウィッチ海溝 | 2019年2月3日 | 7,434 m (24,390 ft) |
インド洋 | ジャワ海溝 | 2019年4月5日 | 7,192 m (23,596 ft) |
太平洋 | チャレンジャー海淵(マリアナ海溝) | 2019年4月28日 | 10,925 m (35,843 ft)* |
北極海 | モロイ・ディープ | 2019年8月24日 | 5,551 m (18,212 ft) |
技術的なハードルだけではなく、物流の点でも苦労をしたとヴェスコヴォはいう。「それぞれの海のコンディションに合わせてダイブの日程を決めなければいけませんでした。天候や機械的な問題、許可を得るタイミングなどで、94回のスケジュール変更が行われました。」
深淵へ
5回のダイブでは、30~40の新しい生物が見つかり、科学的発見が数多くあった。しかし4回目のダイブは、特に大きなインパクトがあった。チャレンジャー海淵の深度はおよそ11 km。これは太平洋のみならず、地球上の最深部だったのだ。
「最も高い高層ビル|tallest building」としてギネス世界記録に認定されている、ブルジュ・ハリファと比較してみよう。この高さ828 mの高層ビルを13棟積み上げても、チャレンジャー海淵の深さに届かない。より小さな建造物と比べると、エンパイア・ステート・ビル28.5棟分、エッフェル塔36基分、ギザのピラミッド78.5基分となる。
2019年は、チャレンジャー海淵内にある凹地で2回、ダイブが行われた。これはマリアナ海溝より大きな凹地だという。以前までは比較的平坦な海底と考えられていたが、直接観察とCTDセンサーおよびランダ―による測定の結果、でこぼこや海嶺があることが分かった。2回のダイブの平均深度は10,925 mだった。

2020年6月にはさらなる探査が行われた。ダイブに同行した海洋科学者のキャシー・サリバン博士は「チャレンジャー海淵を探査した初の女性|first woman to visit the Challenger Deep」となった。
この探査の結果、地球上最も深い場所は、以前思われていたより深いことが分かった。独立した水路学のエキスパートは、最深部は10,934±3 m(1-sigma/68%)または10,934±6 m(2-sigma/95%)と分析した。いずれにせよ、これがチャレンジャー海淵の最深部記録となった。
ヴェスコヴォは8回、チャレンジャー海淵を探索した。今まで13人のアクアノートがチャレンジャー海淵を探索したが、1回以上潜ったのは、ヴェスコヴォともう1人だけだ。




チャレンジャー海淵のベテランであるヴェスコヴォだが、彼に初めて探査した時の印象を聞いた。「(チャレンジャー海淵に潜る前に)多くのダイブを行ってきましたが、マリアナ海溝に行くということは、今まで以上に深い所に行くということだ。頭の中では、全てがうまくいって安全に地上に戻ってこれると思っていても、やり遂げてみないと分からないのです。」
「でも海底に着くと、とても面白くなります。海底を探索し、生物を探すのは素晴らしい体験でした。チタニウムの潜水艇に私1人だけで、何をやっても良いのです。まるで5歳児に戻ったかのようでした!」

初のチャレンジャー海淵探査の所要時間は4時間。なるべく多くをまわり、それを録画した。生物、そして海底の地形を記録するためだ。海淵の端に移動すると、ゆるやかな傾斜があり、そこで岩を発見した。色が特徴的で、その場では火成岩なのか堆積岩なのかは分からないが、海底に眠る"科学"を収集し回ったという。
重要な探査作業ではあったが、それでもヴェスコヴォは、海底をゆっくり楽しむ時間も忘れなかった。「潜水艇を海の流れに任せて、ランチを食べました」と語るヴェスコヴォ。ランチのメニューは、ツナサンドとポテトチップスだったそう。
ヴェスコヴォが海底で見たものは、良いものばかりではない。なんと世界有数の深度の海底にも、ゴミがあったのだ。「マリアナ海溝の底で、鋭い物体をみかけたんだ。自然界ではできないようなものをね。追いかけてみたら、クロスかプラスチックのようなものだった。ボディーブローのように効いた光景だった。しかもその上には小さなナマコが乗っていた。食べ物だと思ったんだろう。」
チャレンジャー海淵のパイオニアたち
ヴェスコヴォは「地球の最高峰と最深部に初めて到達した人物|first person to reach Earth’s highest and lowest points」だが、チャレンジャー海淵に初めて到達した人物は他にいる。およそ60年前、同じく元アメリカ海軍のドン・ワルシュ大佐と、スイスの海洋学者、ジャック・ピカールは小型の深海探査艇「Trieste」に乗り込み、およそ5時間かけて海底に到達した。それからわずか20分でまた海上へ引き返したが、その時に到達した深度は10,912 mで、歴史に名を残した。
ソロでチャレンジャー海淵到達に成功したのは、2012年3月25日のこと。カナダの映画監督、ジェームス・キャメロンが、ナショナルジオグラフィックとロレックスが協力して行われたプロジェクトで、深度10,908 mまで到達した。

ヴェスコヴォによる快挙は、チャレンジャー海淵における探査の歴史に新たな幕を開けた。彼が開発した潜水艇「Limiting Factor」は複数回の潜水が可能で、2人乗せることができる。そのためヴェスコヴォ以外の人物を海底に連れていくことができたのだ。研究のために潜った人もいれば、冒険のために潜った人もいる。いずれにせよ、それらが新たな記録を作ってきたし、これからも新たな記録が作られていくだろう。
多くの偉業を残したヴェスコヴォだが、彼の探求に終わりはあるのだろうか?「終わらないことを祈るよ」とヴェスコヴォは答える。「こういった挑戦を続けられるくらい、この世界にい続けられたらと思うよ。宇宙に行ってみたいと思うよ。世界で最も高い所と深い所に行って、さらに宇宙にまで行った人はいないからね。だから色んな人と相談をしているよ。」

誰にも己の挑戦というものを持っていると思います。私の人生で唯一感じたことがあったとしたら、それは人々は自身を過小評価しすぎること。自分が思っているよりもっともっとやれるんです。やれるようになるには、自分の背中を押してあげるだけでいいんです。